2018年1月13日土曜日

阪大の入試判定ミスに思う

例年、センター入試になると寒波襲来がニュースになりますが、関西も本当に寒いです。ただ風は強くなく一見穏やかな気候ですが山間部は大変でしょう。センター入試、受ける方も実施するほうも大変でしょうが今日明日と無事済むことを願っています。
さて、大阪大学は昨年の入試判定ミスで世間を大変騒がせていて、同窓生としては心苦しいです。確かに事後処理では遅れを取ってしまい、危機管理としては低レベルであることは明白でしょう。今になって合格追加といっても当事者には複雑な問題をもたらしていると思われます。昼のTV報道番組では大相撲の次は阪大入試、といった感じで、女性キャスターが、18歳の若者の人生を狂わした、取り返せないのですよこの1年、と声を上げて阪大を非難しています。確かにそうかとは思いますが、一部のコメンテイターからは、本人は前向きに考えて欲しい、という声もありました。阪大の非は非で認めて責任を取ってほしいですが、当事者には自分の将来をよく考える試金石として捉えれる目向きの対応をして欲しいと思います、道が開いているのですから。
この入試判定ミスで思うのは、以前に学長ブログでも書いたと記憶していますが、大学にとっては、特に教員ですが、試験問題作成は大変な負担で、本来の仕事にかなり影響する行事といってもいいでしょう。毎年新しい問題を作ること自体も大変で、無理をすると正解が複数出たり誤った解答を作ったりする危険を孕んでいます。そのために、予備校に問題作成を依頼することも多いわけですが、経費の問題と大学自身の選抜試験への考え方、などから丸投げ一辺倒にはならないのが現状でしょう。今回の物理の問題作成でも研究者としてのスタンスと問題作成という雑用的なものとの棲み分けが曖昧であったのかもしれません。共通一次が種々の問題がある中でも定着していることから、大学独自の問題作成、試験の在り方はそろそろ考え方を変える時期かもしれないのではと思います。論文形式の問題を主体とすれば解答ミスは行らないでしょうし、学力に何かプラスするものを持った人を受け入れ、教育していく、ということも大事でしょう。こういった仕組みを取っている大学や学部はすでにあると思います。私の勉強不足ですが、私学系で進んでいるAO入試方式がそれにあたるのかとは思いますが、今後は国立大学での対応が注目されます。後述。

この点で言いますと、共通試験(センター試験)の在り方として、今のものから今後はいくつかに分化させたものを作ることも、国立大学や中でも医学部では考慮したらどうかと思います。単に試験判定ミスを防ぐのではなく、教員の負担を減らし、より高いレベルの(難易度だけではなく)選抜試験を作ることはどうなのかとも思います。わが国では大学入学選抜試験の背景には偏差値が大きく関与し、面接や論文での選考過程はあるにしろ、試験点数が絶対的であります。しかも、定員が決まっていて、入学させたら何としても進学、卒業させるのが役割となっています。医学部でいうと、面接はあっても形式的で、医師としての適応性は入ってから分かってきます。東大理3での医学部進学選抜は別の意味でのステップですが、学力の世界です。少し余裕をもって入学させ、専門課程に進む前に選抜するくらいの試みをやるところは出てこないのでしょうか。これも、教養課程がなくなり、専門教育が前倒しになっている現状では難しいでしょうか。途中での共用試験がありますが、それに不合格になってからの進路変更は遅すぎることもあります。今回の騒動でも、若い人に1年の意味に拘った報道がされていますが、何かわが国の教育制度には余裕がないのではと思ってしまいます。これでは社会人になっても余裕がない人が多く出てくるのではと思います。
今後、大学入試判定ミスが出てこないように願うばかりですが、今回のことから、大学を一方的に非難する以外に、背景の分析と問題点を出して、入試制度の改革作りの一歩になればいいと思いますし、大阪大学が後始末だけで終わらせず、入試にあり方そのものについて見識ある対応を取ってほしいと、同窓生の一人として感じた次第です。

もう一点加えるなら、阪大が大学評価でトップ2に水を空けられているなかで、これはかなりの痛手でしょう。危機管理としては最初の記者会見に総長が出ていなかったことは理解できませんし、ここから悪循環が始まります。病院での経験からの感想です。大学の高度の研究を進める研究者である教授の役割をよく考えないといけない面もあるはずです。阪大執行部体制や問題の教授の肩を持つつもりは毛頭ないですが、ここでさらに大学評価を下げるようなことにならないような根本的な問題の洗い出しと斬新的な対策が出てきてほしいですね。

新春放談のような無責任な話で恐縮です。

2018年1月9日火曜日

明けましておめでとうございます。


  皆様、新年明けましておめでとうございます。と言っても、もう松の内も過ぎていますので、何か正月ボケのような感じでしょうか。年末もきちんと締めの原稿も書けずに年が変わってしまい、何かだらしない年越しでした。特に話題もないなかで、今年の目標なるものを掲げることも大事かと思うのですが、年末の締めも出来なかったように、もう何か惰性で生きていっているのかと思います。とはいえ、何か目標を立てることはこの歳でこそ必要なことかと考えるとことにします。

私のこの10年ほどの活動の軸でいいますと、臓器移植、新専門医制度、成人先天性心疾患、人工臓器・医療機器開発支援、そしてシミュレーション手術トレーニング、等になるかと思います。臓器移植は法整備20周年記念も終わり、イベント的なことから本来の地道な普及啓発と重点施策の推進が必要です。今年も都道府県コーデイネーター増員に向けて兵庫県で継続して動くつもりです。新専門医制度はいよいよ基本領域がスタートしますが、私の関心はサブスペシャル領域の動きで、専門医機構がここに入り込む余裕がないなかでどう独自路線を進めるか、正念場と思います。3階部分に当たる成人先天性心疾患専門医制度を立ち上げるべく準備中で、今月後半の同学会で概要を提示できるはずです。成人先天性心疾患は専門医制度とも絡みますが、この複雑な疾患群の診療のなかで最も遅れている心臓移植については、自分なりにまとめた現状分析を3月の日本循環器学会のシンポジウムで発表する予定です。因みに、昨年はこのテー、で英文とその和文版を学会に採用されました。

人工臓器関係では植込型補助人工心臓の永久使用が始まるかもしれませんが、どのようなスタートを切るのか注目されます。社会の理解と支援を如何に得ていくかがリーダーに課せられた課題でしょう。医療機器開発では、神戸市での現在の活動をさらに推し進めるにはどうすればいいか、正念場の年です。最後の手術シミュレーション(OFF-JOB)トレーニングは、福島(福島県)中心にいま進めているプロジェクトの拡充が課題ですが、これまでのまとめを5月のアジア心臓血管胸部外科学会(モスクワ開催)へ演題提出をしているので、採用になれば行くことになります。

以上が目標というか今年の予定であります。それぞれ少しでも進めていければいいのですが、その前向きな所とは反対に自分の出来る限界も知らされるという逆の面もあるので、沢山あると喜んではいられません。重点を置くことが大事のようです。
一方、余暇の使い方では、整形外科医からの許可が出るかどうか微妙ですが、この冬のスキー復活、そして春からの自転車、でしょうか。両方とも下手をすると寝たきりや車椅子になりかねないので、安全第一に心がけることをここで表明でもしないと許されないと思われます。しかし、この半年、自分なりにこれまでにないくらいしっかりとリハビリと筋トレで頑張ってきたので、それなりの主張は出来ると思っていますが過信は禁物ですね。


といったことで今年の第一報にします。段々密度が薄くなってきているので、いつ止めてもいいと思いますが、もう少し頑張ってみようと思います。実は、今世の中を賑わしている阪大入試ミスについて書こうかと思ったのです、初っ端にしては面白くないので次回にします。今年も宜しくお願い申し上げます。

2017年12月21日木曜日

心臓移植を受けて水泳競技で活躍

 先日、TVで心臓移植を受けた少年が移植者スポーツ世界大会競泳で銅メダル、という言い素晴らし放映があった。中学生だったと思うが、泳ぎ方(自由形)が本格的な選手みたいで感心したり、嬉しくなったり。 移植までのストーリーが紹介されたが、阪大病院や国循(?)の建物が移っていたので、どこで移植を受けたか注目して見ていた。答えは海外であった。募金活動の映像もあり、母親も本人も、家庭も何も隠さずにオープンになっていて、すがすがしい感じでもあった。
 移植者スポーツ大会は毎年わが国でも行われていて、国内外で臓器の移植を受けた方々も頑張っていて、世界大会にもわが国から毎年沢山の方が参加している。一般社会では心臓移植や肺移植の患者さんの元気な姿を見ることは少ないが、こういう会に出ると移植の凄い力が伝わってくる。今回の放映も、心臓移植を受けた少年の姿に社会の皆さんもその素晴らしさに感動したのではないか。
 ただ、渡航移植をどうこう言うのではないが、こういう放送に国内で心臓移植を受けた方も是非登場して欲しいと思う。脳死からの臓器移植がまだ年間数例といったころは難しかったが、最近はいろいろな機会で移植者の顔が見られるようになった。とはいえ、まだ限定されているのでは。神戸の市民公開講座でも心臓移植を受けた方に登場してもらったが、いつも問題なるのは、ドナーの遺族の方への配慮である。法律の指針で、レシピエントとドナーの情報(個人情報)がお互いに伝わらないように配慮することが書かれている。このテーマは何度も書かせてもらっているが、わが国で例えば心臓移植を受けた患者さんがTVでその元気な姿を見ることが少ないことの背景にこの指針があるとすれば、やはり問題ではないか。
 先日の読売新聞の臓器移植シリーズの一つで紹介された話。脳死ドナーの家族がTVで肺移植を受けた元気な方の姿の放映を見ていて、画面に移植した日時が出ていてその日が亡くなった家族が臓器提供した日であった。このため、この方が家族の肺をもらった方と分かり、同時にその元気な姿を見ての感想が述べられていた。この放映で移植を受けた日を明らかにしてしまったことは、指針に触れるから今後注意するように、という声が出るのかどうか。遺族がこれで心が安まった、提供に同意して良かった、ということでいい話である。結果オーライではいけない、と原則論を強く主張する方もおられる。移植を受けた方も、ドナー家族との直接の対面は希望されないことも聞いている。
 今回の渡航移植患者さんのTVでの紹介、そして新聞記事での遺族の思い、など臓器移植の啓発活動において考える大事な事例であると思う。渡航移植と国内移植で移植を受けた方のメディアへの出方が違うのやはり何かおかしいのではないか。そして、臓器移植を受けた方が何かひけめを感じることのないように、学校や社会も移植を受けた方のその勇気そして頑張りに拍手を送る、という姿を皆で目指そうではありませんか。それがドナーとその家族への社会からの感謝にもなると思う。

2017年12月17日日曜日

新専門医制度で見えた内科・外科の不人気の背景は?


     再度 医師偏在に関連した話で恐縮です。
 新専門医制度が来年から始まるが、その一期生(卒後3年目)の応募状況が分かってきいている(日本専門医機構)。マッチングの一次結果なので最終ではないが、おおよその傾向が見えている。内科は2527人、外科は767人、総合診療は153人である。内科は全体の38%を占めるが、前年比(学会がまとめた登録数から)では約21%減少、外科は約6%減少という。外科はまだ何とか維持しているが内科はこれが本当なら大変である。一方、眼科の希望者、特に都会で目立っていると言う。内科外科は修練期間が長く、関連診療分野を回るので資格取得まで長くかかるが、眼科や皮膚科、耳鼻科はストレート研修できるので早く専門になれるという.こういうところが今の医学生に人気が出ているということになる。 
さて、ここでいう外科も内科も基本領域というもので、内科はその後に循環器、消化器病、糖尿病、呼吸器などに分かれていくので、この減少がどの分野がその影響を受けるかはこれからの問題である。外科も、消化器外科、心臓血管外科、呼吸器外科、小児外科、乳腺内分泌外科、などに分かれて行く。ここで誤解が生じやすいのは、社会で言う内科と外科は、昔はそれで通じたが今はこのような大きな括りでの内科、外科は存在しなくなっている。標榜科名には内科、外科は存在していて、病院でも内科と書かれている、実は内科の専門外来の集まりである。総合診療的な意味を持たせている場合もあるが、これからは別に総合診療科(内科というより全体を見る)というものが登場してくるので、世にいう内科の存在意義は薄くなっている。外科でいう一般外科は消化器外科が担当ということが多かったが、内科は特に消化器内科がカバーしているわけではない。ジェネラルな内科という専門性を持った内科医は限られて、サブスペシャルといわれる内科系医師が担当してきたが、今回、内科系ではなく一つの基本領域として独立した総合診療専門医が創設された。しかし、希望者はまだまだ少ない。
この総合診療専門医の登場で、内科外科といったジェネラルな初期対応の在り方は変わってくるのか。初診でしっかり鑑別診断が出来、専門医へ送る役割を果たす総合診療医、プライマリーケア医、が必要であり、わが国ではここが弱点であった。英国のような家庭医制度もない。新たな総合診療医がわが国で定着してくのか、大事な判断が要る。総合診療医を育てる仕組みが殆どないことが課題である。内科医のほとんどが循環器や消化器などのサブススペシャルで活動しているのは、大学の講座がそうなっていて、総合診療科はあっても大きな講座にはなっていない。ここを何らかのテコ入れをする施策や処遇改善をするなどしないと育たないのではないか。地域医療を担う病院(自治体病院など)で少なくとも若手を指導できる一人の総合診療医がいるようにすることで、いわゆる内科医不足の一部は改善されるのではないか。
論点を整理しなといけないが、今回言いたいのは、内科と外科といった大きな括りでの専門医制度の在り方である。両者は基本領域で、実際の専門性の高い部分はとサブスペシャルになる。この内科外科分野の二階建て構図は新専門医制度の構想初期で議論になり、外科ではすでにこの仕組みが定着していることによって、内科も渋々同調した経緯があったと記憶している。しかし本音でいうと、内科と外科の基本領域としての存在意義は薄れている。では何故残っているのか。自分自身は外科の共通する基本分野は残すべきと考えていたが、 新制度つくりが混迷を来している中で、反省時期に入っている。初期研修もそうだが、臨床医学のベッドサイド教育のあり方の変化もあり、かなりの部分が医学部教育への前倒しで対応できると思われる。今更ではあるが、10年先には新制度の見直しで現在の内科外科のサブスペシャルが基本領域に下がる可能性もあるのでは思っている。すでにその前兆として現実にはサブスペシャル研修(修練)の前出しで基本部分の内科と外科は形骸化してきている。一方では、内科外科のこの二階建て構造が本来の目指す姿を考えれば、そして10年後に立派な成果が上がれば、また様相は変わってくるのかもしれない。しかし、そのような前向きの変化は期待薄というのが現実ではないか。
内科希望者の減少というところに帰ると、専門医資格が卒後5-6年で取れるかどうか、という卑近な話で恐縮だが、この修練期間の話は大事な論点であるということになる。そもそも専門医といってもその分野の標準的医療のためのトレーニングが済んだということで、医師の生涯教育の始まりであることを考えないと本質から外れるが。さて、外科では参入者が微減とはいえ増えてはこないとすると、これも問題である。しかし、地域医療での外科ではどういう分野で医師不足なのかの分析がないと話が進まない。それに加えて地域偏在があるので、一概に総数での話は誤解を生んでしまう。
専門医機構の発表では、都道府県別で、内科では20名以下が16県ある。外科では10名以下が27府県もある。これは地域医療での外科の崩壊にも繋がる。日本外科学会内部資料でも分かるが、都市部の有名大学は人気が高く、地域偏在は現実に起ころうとしている。都市部大学で1プログラム50名以上の枠を作って受け入れようとしている。関連病院が多いところは枠が大きいことになるが、これだけ地域偏在が問題視されているなかでのプログラムの在り方が再度問われるのではないかと心配される。内科希望者の減少が事実とするとこれは医療体制維持、医学部講座の役割維持、において大変なことであると思う。
専門医制度の背景は複雑である。医局講座制、学会の覇権争い(会員確保)、多すぎる自治体病院(集約化できない)、勤務医の働く環境、女性医師への配慮、などなど、で頭が混乱してくる。


しばらく更新していなかったせいか、歳なのか、論点整理に陰りが出てきた。自覚できるだけまだ許されるか。

2017年11月19日日曜日

医師偏在是正を法改正で


関西もめっきり冷え込んでいるなか、北国からは雪の便りが送られてくる時期になりました。最近の話題といえば、地域医療絡みでの専門医制度でしょうか。しかも、地方の医師配置に国が法律を作って関わるという、かなりの問題を提起しそうな話です。

1030日の読売新聞、今日の毎日新聞(左)で、取り上げられているのは、地域の医師確保に都道府県(バックは厚労省)の権限強化、というものである。市域の医師不足対策で、これまで医科大学の地域入学枠があるものの数が少なく初期の目的に合わない現状もあり、都道府県が医科大学この枠の増員を要望できるように法改正をするようだ。また、実施において基礎となる地域の医師配置や診療科の偏在について新たな指標を導入するということである。後者については、厚労省は当然ながら十分なデーターを持っているわけで、これまで医師数の地域でみた概要は公表しているが、これからは診療科も含めた分析から医師の偏在について是正しようとする根拠に使うようである。法律でもって医師の専門分野の選択についても指導するということになる。医師の専門分野選択の自由が今後はお上主導で制限されてくる。良いのか悪いのか、複雑な問題でもある。

新専門医制度導入のゴタゴタがここまで影響するとは思わなかったが、新たな制度のコンセプト(プログラム制であり定員制導入でもある)のボールが少しは真面に帰ってきたところもあるのかとも思う。しかし、逆にピッチャー強襲ヒットにしてしまって、後は打たれ放題とも言える状況である。医師の生涯教育の初期段階を何とかアカデミア主導で改革していこうと頑張ったが、どやら厚労省の思惑通り主役の交代となったのか。厚労省も卒後初期臨床研修制度自体には手を付けずに、その後の専門医研修に手を伸ばそうとしている。新制度のコンセプト作りでは、厚労省の訴える地域や診療科の医師偏在是正を目的に入れることには抵抗してきた専門医機構も今や形無しの感である。

実は、専門医制度改革が始まろうとしていた時、私はある雑誌の巻頭言に拙文を投稿した。「専門医制度における定員制導入を医師偏在是正策に」(新医療、20089月号)というものである。医療崩壊という言葉が世に氾濫しているときであり、大学医学部や医師会がここで医師の配置について考えを変えていかないと自らが墓穴を掘っていくことになる。自分たちで制御していくこと必要で、専門医制度対応で来ることがある、という趣旨である。同様のことを胸部外科関係で書いたが、医師の自由度(自由裁量制)を妨げ国による統制社会になる、ときつい反論をされたことがある。しかし、医師側が自分たちの勝手ばかり言っていたら、そのうち医療を受ける側の社会からバッシングが来るから今からでも対応は遅くはない、とも書いた記憶がある。何か予言?通りになってきているのが恐ろしい感じである。自分の責任はさて置いての話で、無責任とも思われるかもしれないが、その後の専門医制度作りが進む中でも、こういう逆効果が出ると何度も忠告をしてきた話である。

一方では、国会では自民党が「医師養成、偏在是正議連」が発足したというニュースもある(m3.com, 11 3日)。卒前臨床研修の在り方、卒後初期臨床研修の中の地域医療研修、卒後2年での認定制度、医師偏在には大学や医師会との連携で新たな仕組み作り、などである。医師の方も多いと思われるが、初期研修制度不要論や医局の復権も大事との意見もあったようである。この議連の動きと先の法改正とはどう繋がるのか分からないところもあるが、先の厚労省の動きのような小手先施策(失礼)を進める前に、この際何が問題かをしっかりと議論をして欲しい。専門医制度を今更先送りにすることは出来ないわけで、プログラム制(かなり弱体化しているが)を基本に粛々と進める中で、上記の動きとの連携を模索していくことが大事であろう。言い換えれば、ピンチをチャンスに、である。

この記事を書きながら、改めて新専門医制度の根幹であるプグラム制導入(定員制)の重要性を思い起こしている。そして行政側に指導されるのではなくこちらが主体性を持ってリードしていくことが大事であると思わざるを得ない心境である。







2017年11月2日木曜日

日本学術会議の提言

 先の臓器移植市民公開講座の紹介が神戸新聞に掲載されましたので。

 それから、日本学術会議で出された提言、「我が国における臓器移植の体制整備と再生医療の推進」なるものが届きました。日本学術会議の臨床医学委員会・移植再生医療分科会からのものです(委員長は九州大学外科の前原喜彦教授)。内容は、これまで関係学会等が検討してきたものを日本学術会議という国のアカデミアの最高機関が改めて社会にメッセージを出したもので、意義は大変大きなことと思います。内容的には、再生医療は別ですが、脳死下臓器提供増加、心停止下臓器提供増加、に加えて組織移植における法整備が加わっています。脳死臓器提供増加では、提供施設の負担軽減が基本で、さらに臓器配分システムでの地域制(リージョナル制度)の検討、まで踏み込んでいます。提供施設のコーデイネーターについては当然しっかり触れられています。この提言を読むだけで、今の日本の臓器移植・組織移植の課題が浮き彫りにされていて、どう対応すべきかも良く分かります。素晴らしい提言です。

 一方でこの提言に対して国が(国会や行政)どう対応するのか、この提言がどれだけインパクトや影響力があるか、注目されます。ただ、内容的にはこれまで行政や関係学会の動きが緩慢であることへの警鐘とも取れます。

 以下感想です。 この学術会議の提言を読んでまず思ったのは、こういう提言をしなけれなばならない背景の分析はどうなのか、ということです。これは提言という性格から、要点しか書かれていませんが、大事なことであると思います。医学教育分野で、脳死と人の死の教育をどこまでやっているのか、二つの死の定義の存在、などへの踏み込みはこの提言の趣旨が体制整備であることからやむを得ないのでしょうが。

 とは言え、僭越ながら個人的に踏み込んで欲しかった(検討はされたかもしれませんし、既に出されているかも知れません)と思う事項は、国の財政的支援の現状はどうかという視点です。言い換えれば、日本臓器職ネットワークへの予算措置、都道府県への支援(コーデイネーター配置への予算など)、臓器・組織移植関連診療報酬の支援(臓器提供業務については触れられています)、死体臓器・組織移植支援への国の予算の費用対効果や諸外国との比較など、であります。国がこの提言の具体的内容について、これまでどれくらいお金を付けているのか、ということをこのような視点で踏み込んで提示して欲しいと思うわけです。この学術会議の臓器移植担当の部会の活動として既に出されているのかもしれませんので、この意見は私の調査不足かもしれません。しかし、いずれにせよ学術会議の提言に恐れ多くも物申すと言いうことではなく、どうフォローするのかということとご理解くだされば幸いです。

 なお、再生医療の推進、も同時に書かれていますが、これはやはり別扱いではないかと愚考します。臓器移植(主に死体からのもの)と再生医療は、社会の目で見ると相対する医療手段として捉えられているむきがありるからです。そもそも再生医療は社会が科学技術の進歩という点で大変注目している状況であり、臓器提供システムの話とは背景が異なるのではと思うからです。少し脱線しましたが、学術会議の委員の先生方には、この提言の纏めへのご尽力に最大の敬意を表していることを付け加えさせてもらいます。

 この提言は、日本学術会議HP 
    http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-t252-3.pdf で閲覧できます。



2017年10月31日火曜日

日本人と英語力

最近の新聞記事には海外からの旅行者向けに簡単な説明用の英語を知っておこうという動や、日本の英語教育についての課題、といった内容の記事が目に付く。日本人はなぜ英語が話せないということで様々な意見や学習広告が目に付く。この点について少し私見を述べてみる。特に目新しいことはないのであまり期待しないで頂きたい。
英語教育現場ではなく一般社会での話でいうと、新聞やTVなどのマスメディアの問題が大きいと思う。まずTVでは、ニュースや特集番組での海外の方の話を字幕ではなく日本語に吹き替えることが常態となっている。少しでも外国語、特に英語に馴染もうとすることには逆効果である。字幕が見難い方もおられるとは思うが、若い人たちには勿体ない話ではある。映画も、吹き替えでなく字幕版をもっと増やせばいいと思う。こういう吹替文化は、若い人の外国語力を低下させているのではないのか。
NHKニュースでの英語の吹き替えはそう多くないかもしれないが、一般的にNHKとしてのスタンスにも問題があるのではないか。公共放送だからと言って、英語教室ではなく一般の放送での話であるが、nativeの英語の話に親しむ機会を少なくしてはいないか。TVではニュース以外にも特集番組があるが、先日はNHKで金融工学の話があった。一つのサンプルと思うので紹介する。米国のこの分野の先駆的人物の紹介があったが、名前はカタカナが多く、英語併記が少なかった。呼び方も従って日本語である。後で述べる新聞もそうであるが、カタカナと英語は全く違う言葉で、特に名前の発音では日本のTVで聞いた名前では海外では通じない。 その番組でのキーワードにtruthがった。 画面では英語で書かれているが、ナレーターはツルース、という。 thの発音相当するものがないから仕方がないが、これくらいは正確に言ってほしい。発音、イントネーションでは、フロリダのOrland も最初のオーを強調するか後のランドのラをそうするのかで全く違うことになる。前者では通じないわけで、海外のニュース担当者も英語ではそう言っていないが日本語となると日本人しか通じない発音にしてしまう。発想が、英単語はまず日本語に直す、ということであって、英語で伝えるという考えがない。マクドナルド、コープ、インターネット、しかりである。若い人で海外に出かけよとする人たちは、その違いを知っておくべきである。
新聞もこういう意味では弊害になりかねない。海外の方の紹介では、名前の英語併記はごく限られている。それは字数の問題よりも縦書きにあると思う。何故日本は縦書きと横書きが並列して行われているのか。学校の教科書では国語や社会では縦書きである。無論、漢字文化であるからしょうがないといえばそうであるが、中国(台湾は縦書きらしい)は横書きを採用している。但し、英語名はアルファベットではないようである。日本の一流紙も部分的には横書きのコーナーもあって、ここでは英語表記は容易である。縦書きの英語は意味がないのでやらない、で済ましているのでは。米国大統領も、トランプ、では通じない。名前だけではなく、国際的なニュースでの英語表記は、いつもではないが、時に書くことも大事であろう。ニュース等での注目される言葉の解説は横書きコーナーにしているから、心配ご無用、というかもしれない。しかし、要は、英語(外国語)に親しむ、という視点がメディアには欠けているのではないか。我が国の縦書き文化と海外の横書き文化との違いは大きいと思う。伝統文化は別にして、情報伝達としては考える余地があるのでは。どこかの新聞が、10年後には横書きにする、と宣言してくれないか期待しているところである。勿論、日本特有の文芸・文化は縦書きでないと話にならないが。

こんな戯言が若い人には通じない、とすればそれが問題か。最近、英語力が落ちている中で、海外映画も字幕版を見るようにして儚い努力をしているが、日本文化にどっぷりと浸かってしまっている頭の中では英語力の退化は避けられないと自覚している。