2015年2月28日土曜日

医療事故調査制度開始に向けて


   2月26日の新聞やTVなどで医療事故調査制度(第三者機関設置)についての報道があった。前日の25日に制度の運用指針を詰める検討会が厚労省で開かれたが、医療側と患者(遺族)側の意見がまとまらなかったという。医療事故と第三者機関設置は医学界はじめ法曹界、マスメディアでも長年にわたり議論されてきた。古くなるが日本外科学会がその必要性を謳った声明(要望者)を出したのは平成16年(私が会長でした)である。その後、内科学会と連携し死亡事故調査モデル事業が進んだが、いざ法律制定となると、第三者機関に届けることと警察への届け出の関連や、そもそも医療事故とは何か、予期せぬ死亡とは、さらに医療法第21条の異状死の届け出制度との関連、など複雑な背景があってなかなか法整備まで進まなかった。

   民主党政権時代に法案が出されたが、関係者の意見がまとまらず、法成立は持ち越されていた。そして、自民党政権下の昨年になってようやくまとまり出して、昨年6月に医療法が改正され、今年に10月1日から施行されることとなった。しかし、遺族の代表と一部の医師らとの意見が対立し、25日に予定していた骨子のとりまとめを見送った、というものである。

    この制度は、医療事故が発生した医療機関においてまず院内調査を行い、その調査報告を民間の第三者機関(医療事故調査・支援センター)が収集・分析することで再発防止につなげるための医療事故に係る調査の仕組み等を、医療法に位置づけ、医療の安全を確保するものである(厚労省)。第三者機関は、医療機関への支援、院内調査結果の整理と分析、調査(遺族あるいは医療機関かの要請)、再発防止に関する活動、医療事故調査に携わる人材の研修、などを行うもので、民間組織を厚労省が指定することになっている。

    この問題は、私の学長ブログ時代から何度か取りあげていて、その後も神戸新聞のコラムを担当した時にもコメントしている。さらに昨年6月22日のこのブログへの投稿で詳しく解説している。繰り返しになるが論点整理をしておきたい。何故、何年も掛かってまだ纏まらないのかの背景は、①医療側が患者さん側と医療事故という場面で信頼関係が構築できるのか、②そもそも医療事故とは何か、医療ミスを前提とするのか、予期せぬ死亡とはどういうものか、③医師法21条は残ったままで警察への届はどうなるのか、④第三者機関の役割が明確でないために混乱が起こらないか、などであろう。今回の意見が纏まらなかったことの背景は、届け出た内容が第三者機関を通したとは言え遺族側に伝わるわけで、その後に第三者機関がどう説明しようが医療事故として訴えられることが想定されることから、医療側が二の足を踏んでいるということである。

    訴訟になるのでは、という危惧については関係者が歩みよれる好は少ないと思う。しかし、そこは医療側も頑張って患者側からの信頼を得るのが大前提であり、何とか折り合いをつけてスタートさせるべきであろう。ただ、医療は不確実性をもったものであり、いろいろな状況で患者さんが死亡するということが予想されるが、予期せぬ死亡、ということでは医療側と遺族側では考えが異なることは当然考えられる。そもそも予期せぬ死亡という言葉は、日本法医学会が医師法第21条の異状死の解釈において、学会見解として出されて言葉であり、以来議論が続いている。もう一方では、欧米のように、特に英国圏では、検視官(コロナー)制度がしっかり機能していて、第三者機関などは置かずに対応がきちんとされている。病院で死亡例が出て、何か問題がありそうな時に、事故かどうかは地区の国が認めたコロナーが判断を任されている。何故この制度が我が国で浸透しないのか、不思議である。法医学分野に入る人材が絶対的に少ないからであろうが、第三者機関の役割の最後の、調査に関わるものの研修、がこれを想定しているかどうかは分からない。

    だいぶ長くなってしまいましたので、これ位にします。先週も今週もですが週末は天気が荒れていて、スキーはその後の全関西学生スキー選手権大会(野沢温泉で3月5日から開催)までお預けのようです。

2015年2月23日月曜日

シミュレーター看護研修、その後


 私が理事長を務めています神戸国際医療交流財団では、人材育成事業の一環として患者シミュレーターを用いた看護研修を始めています。昨年秋より始めて先週で3回目でした。昨年11月に開始したおりにこのブログで紹介していますが(26年11月17日)、その後の経過報告と言ったところです。
我々の持っているシミュレーターは高機能という名前がついていて、バイタルサインの把握が出来る全身型の人形です。種々の疾患や臨床場面を想定したシナリオを設定できるものですが、まずは手始めとして、チーム医療のための看護実践スキルアップ研修、というタイトルを付けて始めました。土曜日の午後の4時間コースで、毎回6名前後の参加を募って計3回行いました。中堅病棟看護師さんが病棟で患者さんの容態がおかしくなったときにどう対応するか、というのが基本シナリオです。初回と第2回は病棟の個室で低血圧を来した患者さんへの対応でしたが、3回目は呼吸障害のある患者さんが急に意識状態が落ちた場合を想定しました。新人看護師が病室訪問したらの意識レベルが落ちていることに気がついて中堅看護師を呼ぶのですが、この中堅看護師が、一次評価で状況を迅速に把握し、2次評価をして医師を呼ぶという流れです。
各参加者が人形を患者さんと思って、バイタルサインの把握から次ぎ何をすべきか、チームとして新人看護師にどういう指示をして、どのタイミングで医師を呼ぶか、といったことを迅速に判断しないといけないわけです。他の参加者が前で観察している中での演技?なので、皆さんかなり緊張されます。でも大事なのはファシリテーターの助言でもって皆さんで議論することです。正解を求めるのではなく、採点されるわけもなく、楽しいなかで何かを持ち帰る、自信がついて帰ってもらう、というところが目標です。ファシリテーターの役割も大事ですが、私はドクターコールで呼ばれる当直医の役割で、病室に着いた時に看護師さんと一緒に病態の把握と対応を考えるべく、最小限の発言(質問)で終えています。チーム医療のためと銘打っているところを思いだしながら、私もコンピューターの操作だけでなく、一緒に参加しているという気持ちで楽しみました。
現在、学部のみならず生涯教育としての看護教育がシミュレーターを使って盛んに行われています。一つのブームと言っても良いでしょう。新人看護師を対象としたものや救命処置を主としたものが多い中で、アドバンスコースとしてNP(ナースプラクティショナー)教育もあるようです。我々は中堅の仲間入りをしたばかりでまだ独り立ちが心配な看護師を想定して始めました。チームとしてはまだまだ駆け出しですが、これまでの3回を振り返って、今後どう進めるか考え、スキルアップして進めていきたいと考えています。乞うご期待といったところです。

近隣の兵庫県の公立や私立の中規模病院から参加を頂きましたが、終わった後の感想などを追って紹介したいと思います。

追伸:

参加者の方々の一番印象に残ったこと、への回答例です。

l  メンバーと共に患者に起きていることを予測しながら観察することは何かが理解できた。
l  シミュレーションを通しての実践が緊張感もあり良い経験となった。
l  迅速評価~二次評価が大切であることを学ぶことができた。
l  急変時に状況把握やどのように動くかばかり考えてしまい、アセスメントして予測をたてるということが出来ていないことが分かった。
l  リーダーとしての自分自身がパニックになると、普段見えていることも見えなくなることに気付いた。
l  今まで急変時対応はパニックになってしまうことが多かったのですが、迅速評価⇒二次評価とステップに応じた対応を行っていくことの大切さを学びました。
l  Dr.への報告での「SBAR」のまとめ方は今後に生かせるように思いました。
l  相手に分かりやすく伝わりやすい報告、自分のアセスメントもふまえた報告を心がけることで医療現場でのコミュニケーションが円滑になり、患者さんが不利益になってしまうことや事故も防げることを学びました。

Ø   SBAR: Situation(状況), Background(背景や経過), Assessment (判断)Recommendation(提案や依頼)、としてまとめて報告する。

2015年2月13日金曜日

ドナー情報、その後


   先月、臓器移植におけるドナー情報の在り方にコメントを出した。ご自分の子供さんが心臓移植待機中に脳死となり心臓以外の臓器の提供をされた後、ご両親がその心のうちを公表したことを契機に浮かび上がった問題である。小児用補助人工心臓の使用が限られていることと共に、ドナー情報はあくまで表に出さないのか、特に名前の公表について議論が起こった。

その後、地元の神戸新聞の記者から関連する課題の背景などについてインタビューを受けた。その内容を含めた記事が先日出たが、その中で、私の意見として、「いつまでたっても親(厚労省)から離れられない。移植医療の後退を感じる」と私が苦言を呈したことが紹介されている。(2月8日の日曜小論;臓器移植は誰のため? 慶山允夫記者)

一方、昨日の毎日新聞では(212日の朝刊第2面に)ニュース再生という欄であるが、今回の事例の解説記事が出ていた(吉田卓也記者)。「臓器提供 実名公表に自粛、患者の負担回避」とある。内容はこれまでの脳死臓器移植の我が国における経緯を紹介し、何故ドナーが特定できないようになっている背景を解説し、また今回の事例の内容も再度紹介している。記者が訴えているのは、「個人が特定されないように配慮しながらも提供者の思いを社会に伝える方法について議論する必要があるのでは」、というものである。

この二つの記事は、我が国の臓器移植がドナー不足という難しい状況にあるなかで、臓器提供について社会の理解をより深め、移植医療を前向きに進めて行くためにはどうしたいいか、をジャーナリズムの目から問いかけていると思う。

これまで臓器移植でのマスメディアの対応を見ると、ドナー情報についても含め、基本的には記者が独自に得た情報を先に記事にする、というスタンスがあったと思う。そして一時的なことで終わっている。この際、継続的に移植医療について意見を発信しながら、移植医療の啓発にもマスメディアが参加されるようになればいいと思う。また移植医療に携わる側も課題解決に向けた継続的な努力が求められる。

なお、小児の補助人工心臓の早期承認についての関係学会から国への要望書は近いうちに提出されるようである。
 
 記事は地域紙の神戸新聞のみ紹介する(2月8日)
 

2015年2月5日木曜日

最近読んだ本から その2

   二冊目は「原発と大津波・警告を葬った人々」(添田孝史著、岩波新書)で、東日本大震災と福島原発事故を扱ったこれも新聞記者の取材記録を主とする検証である。
著者は朝日新聞の科学記者としてスタートした頃に阪神淡路大震災が起こり、阪神高速高架道路がなぎ倒されているのを目の当たりにして、耐震工学関係の学者達の言うことが信頼できない現実を知ったという。
     阪神淡路大災害後、著者は科学記者として原発は地震が起きても安全という安全神話に疑問を持ち、精力的に取材と資料調査を始めている。そして疑問の始まりは、1997年の石橋克彦神戸大教授(当時)の「原発震災」という言葉、概念を知ったときとしている。その論文では「原発は最新の地震学の知識を反映しておらず、設計で想定していた以上の地震に襲われて事故を起こす可能性がある」と書かれていた。この意見を原子力のお偉方は無視し、さらに安全神話を作って行った。福島原発事故が起こるまでに学会や行政、そして電力会社が取ってきた地震および津波災害対策について検証している。登場するのは原子力安全保安院、電気事業連合会、土木学会、などで、関係省庁や学会が取り組んできた原発の耐震性の基準作り(耐震指針)を振り返りながら、安全基準についての疑問を研究者や行政に投げ続けたが、2011年1月17日に東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)が発生した。

    地震と共に10mを超える大津波によって福島第一原発は全電源喪失という大変な事態に陥り、水素爆発、炉心融解という大事故になってしまった。記者は原発の震災対策の杜撰さを目にしてきたなかでまさに大事故が起こってしまったわけである。そして東電社長が事故後の記者会見で、「想定を大きく越える津波だった」と発言したことで、この記者は大変憤りを感じている。記者はその年に退職しフリーランスとなってこの問題を追ってきた。想定外ではなく危険な古い想定をそのまま放置していただけの不作為である、ということの検証を進めてきたわけである。その中で、行政の立場、企業の立場、学会の立場、がうまく連携が取れていない、また過去の大地震の記録をしっかり読んで具体的対策に転換できなかった日本の行政の甘い仕組みについて資料を基に明らかにしていっている。電力会社という企業の経営からみた対応の限界も大きな要因であるが、アカデミアについては土木学会(当時)が利益相反を当然のごとく抱えた御用学会となり、本書では退廃という表現で糾弾されている。
   
   以下は私の感想です。1000年に一度あるかないかの巨大地震を想定して、巨額の費用が要る防災対策を企業や行政が出来るかどうかというジレンマはあると思う。しかし、原発はいったん重大事故が起これば直接被害はもとより放射能汚染という何十年後にも影響する大変なことになる。想定外という言葉は、その想定が科学的検証によって支持されていれば納得できるが、そうでないからこのような大事故になったといわれても仕方がない結果であった。後からなら何とでも言えるということもあるが、この本では阪神淡路大震災からの約15年の間の歩みを検証しているのから説得性があると思う。抜本的な巨額の費用が掛かる対策ではなく、津波の高さの想定が科学的な背景を持つことを理解して、電源確保を最優先にしてもう少し対応できなかった悔やまれるところである。因みに東電は設置申請時には想定津波高を3.1mとしているがその後の種々の提唱に対して対応は+40センチだけに止めていたということである。福島沖は地震学者からは大地震では想定の5.7mでは危険で15.7mを提案しているが、東電は対応しなかったと書かれている。爆発事故後の対応で高い評価を得た福島第一原発の当時の吉田昌郎所長は、2006年(7年?)に新たな耐震指針(15.7m)が出されたときには東電の原子力設備管理部長で、この想定を受け入れなかったことが紹介されている。複雑な気持ちになる。

    二つの本を読み比べながら、一つは医学生理学の基礎研究でもう一つは工学系で国の運命をも揺るがす大事故、というかけ離れた分野ではあるが、科学的検証、ピアーレビュー(利益相反や隠蔽のない検証)という点では共通点があるように思う。現在も既存の原発の安全性の評価も取りざたされているが、原発に限らず医療でもそうであるが、安全性や信頼性の評価はそれを社会に公表することで科学的検証、ピアーレビュー、となるのではないかと思う。

    ということで、二つの本を科学的検証で並べるのにはこじつけのような所もありますが、人の健康も国の安全も科学の在り方で大きく変わることを知らせているように感じた次第です。少し添田元記者に肩入れした内容になったかも知れませんが、事実や歴史を振り返ることは大事だと思います。(事実関係については正確性を欠いたところがあるかも知れませんことをお断りしておきます)


2015年2月4日水曜日

最近読んだ本から その1


厳しい寒波が続いていますが、皆様如何お過ごしでしょうか。早くも2月に入り年度末の何か気ぜわしい雰囲気が感じられるこの頃です。

今日のテーマは、最近読んだ本の感想です。二つあって、共に科学的検証というテーマで共通しているものです。23週間前ですか、ある新聞の本の紹介欄に出てきたもので興味があったのでさっそく読んでみました。一つは「捏造の科学者・STAP細胞事件」(須田桃子著、文芸春秋社)で、もう一つは「原発と大津波・警告を葬った人々」(添田孝史著、岩波新書)です。共に科学新聞記者が真摯に取り組んでスクープ合戦の中で鋭い視線で追ってきたものの纏めです。日本中を巻き込んだ社会的事件に対して、記者の目から科学的事実の検証とその社会的意義についてしっかり書かれていて、興味深く二つとも一気に読んでしまいました。

 STAP細胞については、理研発生・再生科学総合研究所(現在は名称変更されている)の小保方晴子研究員と笹井芳樹副センタ長によるセンセーショナルな発表から始まり、その後一転して論文の不正が次々と明らかにされ、結局はNature誌から論文撤回、そして笹井氏に自殺という最悪の結果にになった経緯が克明に記されている。毎日新聞の科学環境部の須田記者が科学ジャーナリストの意地にかけてスクープ合戦を乗り切ってきた中での、関係者や関連する分野の研究者の聞き取りやメイルのやり取りが中心ではあるが、記者の鋭い目から見た事実とその公表の中で理研の対応の遅さが改めて浮かび上がってくる。

論文不正(捏造)が発生したときの組織の時機を逸しない適格な対応が、超一流研究施設や研究者の対応はまさに医療事故でのリスクマネージメントと同じであると思う。かって医療事故が多発していた時に、当時の名古屋大学医学部付属病院二村雄二病院長が示したスタンス、「逃げない、隠さない、ごまかさない」が思い出される。私も病院長時代に何度か記者会見で頭を下げたことがあり、未だにある種の精神的トラウマになっているが、その際も医療マネージメントのプロから、迅速かつ正確な説明(公表)が基本であることを学んだ。理研の対応と同じには出来ないとは思うが、何かしら共通点があるように思ってしまう。

須田記者が指摘している中で興味があり共感を持ったもう一つのことは、最後に書かれている一流科学誌の陥穽(かんせい、落とし穴)の部分である。NatureScienceなどの超一流科学誌に論文が採用されることで科学の世界では別格扱いとなる。これらに掲載されることで多くの研究者、特に日本では、記者発表をすることが習わしになっている。しかし、その発表の本当の評価は何年か経って新価が評価されるわけであるが、その前に自分たちの成果を喧伝するかのごとくマスコミを使い、またマスコミもそれを鵜呑みにして記事にする傾向があるのではないか。これらの超一流雑誌はインパクトファクターでは20を越えていて、そう簡単に採用されないし、されたら著者にとって大きな業績になる。基礎の分野ではあるが、教授選考でもしかり、科学研究費取得でもしかり、業績にそういった論文がいくつかあると、審査側がまず高いレベルの研究者というレッテルを貼る。STAP論文は2回であったか不採用になっていたが、笹井博士が加わって一気に採用となった。その辺りの問題を指摘しているが、その中に海外の著名な研究者はNature誌などの「商業主義」の問題を指摘している。そういうこともあるのかと驚いている。私見であるが、医学研究(臨床研究も含めて)の世界では論文として世に出されものは掃いて捨てる程あるが、何年か後でもそれが正しく、またそれを基盤に新たな展開が起こっているものはほんの一握りである。科学の発展にはまず論文にしていくこと、それもしっかりした査読のある雑誌が基本であるが、超一流かどうかは別にして論文至上主義という言葉が改めて思い浮かんだ。もう一方で、科学論文もその真価以外に不正がないか検証される、という時代になっているのかと感じた。何か問題が生じたときの検証の方法として、本来は科学的に進めるものがマスメディアが加わるとどうなるのか、それが示されている。

もう一つは東日本大震災の大津波による福島第一原発事故についてですが、分けて書くことにして、まずはここまでとします。

 写真は、先週のニセコでのもの。荒れた天気のなかで垣間見れた羊蹄山です。