2015年7月26日日曜日

在宅薬学会に参加して


 先週末は幕張で開催された第8回の日本在宅薬学会に参加してきたが、薬剤師や在宅医療に関連した幾つかの悩ましい(簡単には解決できないがやらないといけない)課題が見えたので纏めてみる。因みにこの学会は阪大外科の後輩である狭間研至博士(呼吸器外科医兼薬局経営者)が主催して始まったもので、私が丁度兵庫医療大学の学長として6年制薬剤師教育に携わっていた時からのお付き合いで現在は顧問をさせてもらっている。今回の会長は神戸大学医学部教授で付属病院薬剤部部長の平井みどり先生で、病院と薬局の薬薬連携を提唱されている方である。学術集会のタイトルは「理論を語る時代から現場で活躍する時代へ」、であった。
さてこの学会の出来た背景には6年制薬学教育のスタートがあると理解している。また、チーム医療が推進される中で在宅医療における薬剤師の役割を考えると、医師の出した処方箋に従って薬を渡すだけの仕事から患者側に寄った薬の専門職としての貢献が必要になってきたということもある。そこで登場した、というか狭間博士が出してきたのが薬剤師によるバイタルサインのチェックである。薬剤師は患者の体に触れてはいけない、という固定観念からの脱皮を医師でもある狭間理事長が仕掛けた。狭間博士は医師であるから出来るとか、法律違反ではないかと危険視されたが、法律上も許容されることを周知させ、血圧測定や聴診器を使った呼吸状態のチェックを習熟する講習会が全国的に広まった。この行為は診断するのではなくあくまで薬の副作用がないか一般状態のチェックであって、薬物治療の安全性を高め、また処方の疑義紹介や主治医への連絡などに繋がるものである。医師の世界からはかなり否定的な反応であるが、薬物治療の補佐役としての薬剤師の役割を高めるものであると理解している。
さて、今回の学会で私なりに気の付いたことは、当然でもあるがこの薬剤師の役割の新たな展開についてまだまだ理解が得られていない現状があることである。特にシンポジウムで登場した日本医師会の方は法律の文言を提示しながら、薬剤師は薬剤師の仕事をしておきなさい、地域医療に貢献している病院グループでは薬剤師の今の動きなしでもうまくいっている、という発言であった。薬剤師は変わらなくてもいいという趣旨ともとれもので、多分日本医師会のスタンスを代弁したと思われるが、相変わらず医師会の頭の固さが感じられた。チーム医療や多職種協働ということを医師主導で考えている医療現場が依然として存在している。とはいえ、今回は日本医師会との共催のシンポジウムもあり、東京都医師会の近藤副会長も参加され、薬剤師にエールを送って頂いた。
さて、膨大な残薬(服用せずに家に残されている薬)については既にマスメディアでも紹介され、医療費高騰との関連で注目されている。在宅訪問での服薬指導に薬剤師が関わるようになってこの驚くべき実態が明らかになってきている。かといって一人の薬剤師がどうこう出来るものではなく問題提起の段階であるが、この問題には医師側の責任もあると言える。患者が多数の異なった医療機関を受診し、別々に投薬情報の把握なしに、多くは同じ処方の安易とも言える処方の継続、そして何か訴えがあればまず薬を出す、という外来医療の体質の問題でもある。招請講演者の厚労省の審議官のかたは、医療に限ったマイナンバー制度の導入でもしないとこの異状な状況の解決にはならないのではないかとの発言もあった。無駄な重複投薬、貰っても服薬しない、これを医師に言わない患者側の文化も背景にあるようだ。沢山の薬が出ているなかで種々の新たな症状がでるが、これがさらに投薬が増やす現実がある。ごくまれな事例かもしれないが、広く検証が必要であろう。10以上薬を全部止めたら症状が劇的?に改善されたという紹介もあった。ただ、これを多くの病院やクリニックの医師に伝えても、私はこの病気だけに責任をもつから、全体は診れない、という現実もあることは理解しないといけない。
この問題、医師はその専門性で診断して適切な処方をしているが、一人の患者を全体で見る仕組みが乏しい状況はそう簡単には改善しない。そこには複雑な医療の制度的、経済的な課題がある。看護師側からは訪問看護センターから見た病院側と在宅医療の連携プレーの難しさの指摘があった。患者主体、全人的医療目線でのチーム医療を進めようとして看護師や薬剤師がコーディネーター役を買って出ても、その頑張りの行動が病院側からは理解されず、医師の教えてやる、忙しいのに迷惑である、といったことが言われる現実もある。みんな大忙しの医療者はこれ以上の負担はやめて欲しいという現実の中で、調整役としての在宅関係の看護師や薬剤師の役割が今後どう理解されていくのか心配でもある。こういった専門職間の連携をなんとか円滑にして、患者主体の(在宅)医療を進めるには、医師や看護師、薬剤師がそれぞれの役割を理解する姿勢が必要であろう。そのためには、各専門職は継続教育でもって自己啓発と研鑚をしないと時代についていけない。そう考えるとチーム医療の現場で一番出遅れているともいえる薬剤師の奮起が待たれるし、この学会と理事長の狭間博士の役割はまだまだ続く。

2015年7月17日金曜日

改正臓器移植法実施から5年

    今日は改正臓器移植法が実施されて5年目の節目の日であった。昨日から東京で日本小児循環器学会学術集会が東邦大学小児科の佐地教授の会長の下で開かれている。 第11号台風の影響で朝早く家を出てから東京お台場の会場についたのは午後2過ぎで、お目当ての移植に関するシンポジウムに何とか間に合った。
この学会では小児の心臓移植と肺移植推進を目標に委員会活動や学会でのシンポジウムなどで実績を上げてきている。私もかって学会会長もさせてもらい、移植委員会も立ち上げてきたので思い入れも強い学会である。今回のシンポジウムは小児心臓移植と補助人工心臓の二つの柱で開催された。

     今年の特徴は、既に紹介しているベルリンハートの保険適応が始まることから、会場は大いに盛り上がっていた。とはいえ移植適応の子供さんが人工心臓を着けてもその先の移植は門戸が狭く、海外に依存している。そこで我が国で小児の臓器提供を如何に増やすかが心筋症の子供さんを助け道であることから、小児救急・集中治療医である埼玉子供医療センターの植田先生が演者として発言された。内容は先に紹介したものであったが、会場を埋め尽くした会員へのインパクトは大きかったし、頼もしいものであった。何とか小児救急での問題を社会や行政に示し、脳死と臓器提供に関わる課題を解決しないといけない、というメッセージであった。特に、虐待児の除外という現場の負担について、改正法(補足)のに書かれていることから、虐待の可能性の排除について100%は現実的には無理であり、そこには現場の裁量があるという話は興味深かった。

     その前のセッションでは宇宙探査機のハヤブサで有名なJAXAの川口淳一郎さんの特別講演があった。お話も上手で聞き入ってしまったが、言われた言葉の一つに、「規則(規制?)がなかったとしたら自分は何が出来るかを考えろ、であった。規則で縛られた中で何が出来るかでは限界があるから、発想を変えないと飛び出せない、ということである。臓器移植という法律や行政の監視という融通の利かない環境にあるなかで、我々は今何をすべきかについて、この言葉は大事なことを問いかけるものであった。シンポジウムではフロアーからの発言の機会は無かったが、チャンスがあればこのことを言いたかった。目からうろこ、の話である。


     植田先生と後で立ち話をしたが、臓器提供ではない場面での脳死の扱いについて法整備が必要であるというご意見で、移植法再改正ではなく救急や終末期医療の面から検討がされているということであった。脳死と人の死におけるダブルスタンダードの解決への道は始まっていると感じた。

2015年7月13日月曜日

小児の脳死臓器移植;新聞記事から


 先日、毎日新聞(7月8日朝刊)に小児の脳死移植について記事があった。「そこが聞きたい」シリーズで、今回の登場は埼玉県立小児医療センター部長の植田育也氏であった。同氏は小児集中治療について米国と国内での多くの経験をお持ちのかたである。また小児救急の第一線で活躍されながら6歳未満の小児の脳死判定基準策定や実際の脳死判定に携わって来られている。
「法改正5年、変化の兆し」、という見出しが目についた。そうか、もう5年経ったのか、という思いでしっかり読ませてもらった。この5年間で15歳未満の小児の脳死からの臓器提供は7例であったが、この数が多いか少ないかの話しが紹介されている。ご自身の医療センター小児集中治療室(PICU)では年2例ほどの脳死から臓器提供の選択提示をされるそうですが、県の小児救急のセンター的役割から見ての年2例を全国に推測すると、年間で70例ほどの小児の脳死が国内で発生していることになると言われておられる。そしてその1割が提供した可能性があるとすれば、年7例であり現状の5年で7例は少ないと言えるかもしれないという意見である。
我が国で小児からの脳死臓器提供が少ない背景について、先生は小児の救急医療がまだ整備途上であることを指摘され、そして終末期医療も含めた小児救急医療に関わる方々の経験を蓄積させて医療チームの質の向上が今後大切と言われている。ご本人は5年間で9件の脳死臓器移植提供の意思確認をされましたが、いずれも提供には至らかったそうである。子供さんの重篤な脳障害の多くは不慮の事故が原因であることもあって、突然子供さんが脳死状態と告げられた家族は精神的な負担も大きいことから、脳死の受け入れや臓器提供への心の切り替えが出来ないのではということだと思う。先生はこのような背景を考え、普段から脳死になった時に臓器提供のことを話し合っておいてほしいということで纏められている。
興味があったのは記者のコメントで、現在の法律の抱える基本的な課題、即ち脳死は一律に人の死ではなく臓器移植でのみ死である、ということの問題を指摘している。このことが臓器提供の判断にあたって家族の精神的負担を増す要因になっているのではないかということで、我が国の終末期医療の充実には改めて脳死について議論を始める時期ではないかと述べている。
改正法が成立したときの新聞では「脳死は人の死」成立、という見出しであった。脳死は一律死であると言う前提でなければ、家族に臓器提供承諾を任せるのは酷である。臓器提供でもって自分達で家族の死を決めることになるからである。しかし、本人の意思が不明の時に、家族の判断で死となったりそうでなくなったり(臓器提供がなければ死にならない)、という脳死のダブルスタンダードが法的にまかり通っているわけである。この法整備上の不備をなんとか解決することが医学界や関係者の責務ではないかと常々思っているので記者のコメントには賛同するものである。
この課題をどうか解決するのか。こういうことを言い出すと、脳死を一律に死とする国民のコンセンサスはまだ得られていない、という意見が出てくるであろう。本当にそうなのかはなはだ疑問であるが、更なる法整備に向かうとすれば国会議員の方々の賛同をどう得ていくかが課題でもある。移植関係側からは今は何もアクションがされていない。何故そうなのか。
尊厳死も法的に認められていないから、ガン末期でも人工呼吸器を止めることが出来ない現状が続いている。iPS細胞移植はじめ多くの最先端医療が進む我が国において、救急医療や終末期医療現場では未だに人の死についての課題が残されたままである。補助人工心臓の永久使用でもこの問題は生じてくる。脳死判定という高度で確立された医学的な診断と、家族が脳死を死と受け入れる社会の理解との間には大きな壁があるわけで、その一つの原因、というか副産物かもしれないが、脳死のダブルスタンダードではないか思う。学会等で呼ばれた海外からの臓器移植の専門家がいつも指摘するのが、同じ医学的脳死の患者さんが臓器提供のありなしで全く違うコースをとることを容認している日本の医療の奇妙さである。これは相手の心を慮った日本的文化なのか。

脳死と臓器提供問題はまだまだ奥が深く社会の理解を得るには道遠き、の感がするがこの毎日新聞の記事で、「変化の兆し」とあるようにゆっくりではあるが一歩一歩進んでいることを理解することも大事であろう。補足すると、ことの根幹には、医学界が脳死について医学的根拠を持ちながら毅然とした態度をとっていないことが実は最も大きな課題であると思っている。因みに、日本救急医学会は平成18221日に法改正前であるが、脳死は人の死、という内容の見解を出している。しかし、当時の状況では臓器提供以外にも家族にこれを強要することは適切ではなく、慎重な対応が必要としている。救急医学会は当時から10年を経ようとしている今どういう意見なのか、確認したいところである。